待たせたな。坂庭です。
もし、「不可能なことなんてない」
と言われたら、あなたはどう
反応しますか?
「何を言うか」よりも「誰が言うか」
が、大事なんて言いますよね。
今日は有名人の言葉をご紹介します。
今日はオードリーの言葉です。
といっても、「とぅーっす」の春日
じゃないですよ。
ヘップバーンの方です(笑)
「不可能なことなんてない。
impossibleという言葉自体に、
i’m possibleと書いてあるのですから」
オードリー・ヘップバーン
これを聞いてどうですか?
「あれほどの美貌の持ち主だから
言えるんでしょ?」と思いますか?
だとしたら、なかなかの
メンヘラですね。
オードリーは、1度だけ
仕事を断ったことがあると
言われています。
どんな仕事だったと思いますか?
映画「アンネの日記」です。
実はオードリーもアンネも
同じ1929年生まれ。
オードリーは5月4日ベルギーの
ブリュッセルで生まれ、
アンネは6月12日ドイツの
フランクフルトアムマインで生まれました。
2人の誕生日は半月の差。
そして1942年、2人が13歳のとき、
オードリーの祖父の領地と財産が
ナチスに没収され。
オードリーは母とアルンヘムの駅で、
家畜を運ぶ貨車にドイツ兵たちが
ユダヤ人たちを男女別に分けて
乗せているところを目撃しています。
この時、アンネはまだ隠れ家で
日記を書き綴っています。
オードリーはバレエで資金集めを
していましたが、栄養失調で
痩せすぎてしまい、バレエの夢を断念。
1944年、14歳のときアルンヘムが戦場となり、
オードリーは街を歩いているとき、
いきなりトラックに乗せられ
ドイツ軍司令部へ連行されそうになりますが。
なんとか逃亡し地下に逃げ込み、
持っていたチューリップの球根や
チーズで1ヶ月を耐え抜き、
黄疸になりながら母親のもとへ帰ります。
一方、アンネは。
この年の8月に隠れ家の住人全員と共に
アムステルダム警察署へ連行され、
9月、家畜運搬車でアウシュビッツへと
移送されます。
10月、ドイツのベルゲン=ベルゼン
強制収容所に送られます。
半年ほど前の2月23日の日記で
「この日光、この雲のない青空があり、
生きてこれをながめることのできる限り、
わたしは不幸ではない」と語っていた
アンネは1945年に亡くなりました。
1945年5月4日のオードリーの誕生日に
オランダは開放されます。
オードリーはユニセフの前身である
国連救済復興機関からの救援物資の
チョコレートを口にし、泣き、
その時の思い出が後の彼女のユニセフの活動に
繋がったともいわれています。
1988年にユニセフ親善大使に就任。
亡くなるまでの4年間、当時最悪の
食料危機に陥っていたエチオピアや
ソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、
子どもたちの声なき声を代弁し続けました。
いかがですか?
あまりにもアンネと酷似した生い立ちに、
オードリーは映画の出演を辞退します。
「辛すぎて私には演じられない」と。
後年、日本に訪れる際にオードリーは
こんなことを言っていました。
「日本の皆さんは、私が若い頃の
イメージが強いでしょう。今の私を見て
ガッカリさせてしまわないか…」と。
僕は小学生の頃から、オードリーが
大好きです。
生き方そのものが美しいからです。
「ローマの休日」も「ティファニーで
朝食を」も大好きな映画です。
実際に「ティファニーで朝食を」の
タペストリーを部屋に飾っていました。
凛々しくて、チャーミングで、
まるで少女のような笑顔が
世界中の人を勇気づけました。
「不可能なことなんてない」
生まれた時から時代にも環境にも
恵まれた人が言うなら反論も
できるでしょう。
でも、これだけの過酷な人生を
逞しく生き抜いたオードリーの言葉
だったらどうでしょうか?
それでは、最後にもう1つ、
オードリーの言葉を。
「チャンスは滅多にめぐってこない。
だから、いざめぐってきた時には
しっかり掴まなきゃ」
オードリーの健気な生き様が
感じ取れる言葉ですね。
あなたもチャンスをしっかりと
掴むために、不可能を可能にするために、
一歩踏み出しませんか?
さてと。
僕はこれからシーシャバーで
ぼーっとしてきます。
もちろん、自分と向き合うために。
それでは次回の配信まで震えて待て。
ありがとうございました。
坂庭